佐久近辺の美術批評 第1号(2009年上半期号)



彫刻の持つ生命力 −メルシャン軽井沢美術館『もうひとつの森へ』−

大谷典子(ギャラリー勤務)


 画家のたかはしびわさんの依頼により、佐久近辺の美術批評の第一回目を担当させていただくことになった。美術批評は18世紀末から19世紀初頭のフランスに始まったとするのが定説だそうだ。容易に美術作品に接することのできる展覧会が多く催されていたこと、多くの作品に対する信頼できる評価が必要とされていたこと、批評を受容する一定の読者層やそれを掲載するメディアが形成されていること等、都市空間の成立と密接に関わる美術批評の成立要件が、初めて満たされたことがその有力な根拠であるという。佐久市を中心とするこの地域でも、成熟した都市空間となるために美術批評の必要性が感じられるようになってきたということであろうか。

 さて、本題の佐久近辺の2009年上半期の美術批評だが、特に印象に残ったものとしてメルシャン軽井沢美術館の『もうひとつの森へ』について述べたいと思う。この展覧会は、メルシャン軽井沢美術館の本年度最初の企画で、キュレーション及び空間構成は、クリエイティブユニットとして国内外で活動するgraf media gmが担当している。豊かな自然の中に佇む美術館の立地性に注目し、三沢厚彦、マイ・ホフスタッド・グネス、津田直、佐々木愛の4 人が、「森」をキーワードにそれぞれの分野である彫刻、映像、写真、インスタレーションにより、体験や記憶、想像の世界を通して『もうひとつの森』を浮かび上がらせるというものだ。
 美術館の展示室に入ると、天井から吊り下げられた白いカーテン状の布で区切られた空間が、迷路のように連なっている。その空間ひとつひとつに展示がなされており、まるで白い靄に包まれた森に迷い込んだような錯覚を覚える。佐々木愛のインスタレーションは、砂糖や卵白、レモンといった素材を、ロイヤルアイシングという技法によって壁面に施したレリーフ・ペインティングである。主に植物が描かれているが、美術館周辺の民話などをリサーチしてイメージしたという。展示期間が終われば取り壊され、鑑賞者の記憶にのみ残るという脆弱さが、自然の森との共通点と言えるかもしれない。マイ・ホフスタッド・グネスの作品は、作家自身がイメージする森を動物・昆虫・植物などのアニメーションで表現したものである。繰り返される動画が、鑑賞者に森で野生の動物に遭遇したような驚きを与えてくれる。津田直は、美術館周辺地域のリサーチをもとに、ドイツで撮影したという写真で「もうひとつの森」を表現している。美術館の外で移り変わる実在の森と、ある瞬間を切り取られた写真の森の対比が面白い。三沢厚彦の作品は、荒い彫り跡を残し彩色されたほぼ等身大の動物達の木刻で、展示室だけでなく外部庭園にも展示されている。その彫刻作品からは、北部アメリカ先住民の柱状の木の彫刻であるトーテムポールと同じような神秘的・象徴的な魅力を感じる。実際には建物内部に展示した作品のみ木彫で、外部はブロンズなのだが、三沢作品からは先住民がトーテムポールに込めた思いの本質−朽ち果てた木が土に返り、新たに芽生えた木々が森を再生するという、自然の摂理に従う考え方−を感じさせる。
 全体には、4人の作品それぞれが森の中で共生する動物や植物であり、鑑賞者にテーマパークのような楽しさを与えてくれるひとつの大きなインスタレーションだと言えよう。これまでメルシャン軽井沢美術館では言葉で読み理解するような展示が多かったように思うが、この展覧会では「森」という共通言語を与えただけで鑑賞の仕方を見る者に委ねているのが新鮮だった。だがその反面、コンセプチュアルな作品の存在が希薄に感じる。例えば、津田が写真で表現しようとする空気感は、同じ空間にある三沢の作品のわかりやすさによって、単なる背景となって見過ごされてしまわないだろうか。もちろん鑑賞の形は自由である。ただ、三沢の彫刻作品からほとばしる強い生命力が、他の作家たちの作品より説得力において勝っているように思えるのである。

 余談だが、『第23回佐久平の美術展』に出品された齊藤智史の「帰る日」という作品からも三沢作品のような生命力を感じた。これは、お盆に故人の霊魂がこの世とあの世を行き来するための乗り物として用意される、精霊馬と呼ばれるきゅうりやナスで作る動物をモチーフとして作られた木彫作品である。この作品も古くから人々の思いを伝えてきた風習と、木の持つ温かみを現代的に表現した作品として見応えがあった。ここには挙げなかったものも含め佐久近辺で開催された展示に於いては、個人的に立体彫刻作品に惹かれることの多い2009年上半期であったように思う。下半期では心を揺るがす絵画作品にも出会いたいものである。









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