佐久近辺の美術批評 第7号(2012年上半期号)



台頭する若いエネルギー

小林一夫(彫刻家)


 元麻布ギャラリー佐久平で1月8日から1月22日まで開かれた若い4人の作家による現代美術展「しぜんたい」に足を運んだ。
 阿部沙也可、齊藤智史、真海宏之、杉田哲郎の若手4人展である。美大時代の親友だと聞いていた。会場に足を踏み入れた途端、鮮新であでやかな色彩が目に飛び込んで来た。信州の凍てついた空気の中で、突然鳥のさえずりと、花々の生命の息吹が乱舞する世界に迷い込んだ錯覚におそわれた。フレッシュで若いエネルギーに満ちた楽しい展示であった。
 阿部はもともと立体の作家であるが、今回は和紙の上に色鉛筆を走らせたドローイングを発表した。今までにも木彫の上に色鉛筆の彩色を試みていたが、今回はその彩色の部分が壁面を覆い尽くした。緻密でパターン化したストロークの繰り返しが紙の表面を踊り、心地良いリズム感を生み、和紙の質感の中に、淡く控えめな色彩が展開し、リリカルな雰囲気を醸し出している。
 齊藤は一貫して、植木をテーマにして木彫に彩色を試みているインスタレーションである。今までのシリーズの延長といって良いが、今回は今まで以上のテーマ性が明確になっている。木そのものが持っている暖かさとぬくもり、油絵の具の緑色をあえて表面に施すことにより、見る者の目に色彩の刺激を与え、あたかも室内に根の生えた植木が在るかのような感覚を誘う。今回は自然の営みと、人間の営みを同時に作品に取り込んだ全体を流れる大きなムーブメントが、植木屋を自負する自分らしい魅力となって表出されている。
 真海の作品に出会うのは今回が初めてである。手のひらサイズの自刻像を石膏と和紙で創り、12色の色彩をカラースケールのように並べた作品と、壁面には色彩の持つ特性を無表情な彫刻に施し、人間の感情表現としての喜怒哀楽の世界を見せている。彫刻の持つ密度の魅力は大きさに比例するが、敢えて掌にすることにより鑑賞者との距離が近くなっている。例えば碌山の彫刻「女」が等身大でないことが作品の大きな魅力になっているように。一つ一つの大きさが均一で無表情な顔に色彩を施すことにより、より明確な感情表情と変化を創り出している点に焦点を当てると、自刻像を超えた現在の人間像そのものにも見えるのである。
 杉田は大学で日本画を専攻しており、今まで風景を中心に描いて来たが、卒業後コンピューター関係の仕事に就いた、4人の中では異色な存在である。自らの生活背景の中から生まれた表現であろう、巨大化された一つ一つのピクセルの中に、うっすらと人間の顔らしきものが浮かぶ。パソコンの画面に映し出される美しい風景写真を、或いは記念碑としての家族の記念写真でさえも、画面の中でどんどん拡大していくと、最後には一色だけが寄り集まった、味気ない光の色の集合体になる。その時今までの写真の美しさは消えてしまい、眼に写っていた美の正体にたどり着いたような感覚に襲われ、戸惑いと大きな不安感だけが残る。杉田は映像と現実がボーダレスになっている現代社会を鋭くとらえ、埋没して行く現在の文化と価値をアイロニカルに表現している。行き着く世界の見えないバーチャルな世界をこれからどのように捕らえ、絵画表現して行くか、今後の発展に期待される。
 いずれも30才に満たない作家達である、今を考え、自分なりのスタイルを模索し、今回は平面立体にかかわらず色彩という共通項を確認しながら、個々の世界を自由に展開している清々しい展示であった。しかし視点を変えてみると、若者としての危うさと軽さが、日本の現代という時代を投影しているように見えるのは私だけであろうか。
 日本の現代の美術が混沌と閉塞感の中で先が見えない今、「しぜんたい」という言葉は彼らに必然とされるライフスタイルであり、生き方であるのだろうと思う。「美術とは何か、表現とは何か」と自らに問い続けながら表現しなければならない今、自己の立場を肯定するライフスタイルは、人類が太古より自然に営んできた、造形することの喜びと、自らが楽しく創りだすことのみが、鑑賞者をも楽しませることが出来るという、表現の根源を投げかけているような気がする。









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