第15号(2016年上半期号)



イノチミジカシ

唐澤佑里(ライター)


 日本人の平均寿命はずいぶんと延びた。人生30年と言われた時代が過ぎて、人生50年と言われる時代が来て、そんなふうにして時はゆるやかに過ぎてゆき科学は発展し、近年の平均寿命は80歳を超えた。

 私たちはいつかを待っている生き物だ。今ここにしっかり在る今日を気怠く過ごして、ゆらゆらした明日に身を託している。
 いつか素敵な人が現れるのを待っている。明日からダイエットしようと息巻いている。明日になれば腐った環境が変わると思っている。2億円が当たる妄想をする。そのくせ、自分だけは交通事故に遭わないと思っている。自分の隣人が自分を刺すわけがないと思っている。人生は80年もある。明日に期待することはそんなに悪いことじゃないことだってわかっている。その反面で、そんなんじゃ昨日も今日も明日もただただ消費されていくだけだってことも本当は分かっている。のに、見ないフリをしている。

 偉そうに語ってしまった私もそんな一人で、たとえば急になにかが降りてきて、バカ売れする小説がさらっと書きあがって、映画化のオファーが来てもっと本が売れて、、なんて妄想をすることは数知れない。

 さて今回は佐久平近辺の美術批評ということで、批評できるほど美術に造詣が深くないことを恥ずかしく思いつつも、ひょんなことから知り合った佐久平在住の画家の個展で感じたことについて書こうと思う。

 今年の4月に彼女の個展があると知り、勇み足で向かった。葉書に記された住所を頼りにギャラリーに辿りつき、足を踏み入れて一枚一枚の絵をゆっくりと見てまわる。手のひらくらいの大きさの作品から私の身体より大きなキャンバスに描かれた作品もあり、こぢんまりとしたギャラリーの外見とは裏腹に非常に見応えがあるものだった。
ちょうど在廊中だった彼女と近況報告をしあったりなど少し話して、多くの絵の中から惹かれた絵を一枚購入し、帰路についた。

 彼女のSNSの投稿から、彼女にとって絵を描くという行為は食事や排泄と同じように一日の中に当たり前のこととして存在している、ということはなんとなく知っていた。けれど、それをインターネットの画面を通して分かったような気になることと、実際に自分の目で見て感じることには雲泥の差があると強く思った。
 ああ、あのひとは、私がぼんやりと生きている間、ずっと絵を描いていたのだなあ。いつかに頼らず、筆を動かして。

 個展の帰り道、私の目は潤んでいた。
 きっと彼女の、その存在の尊さに涙が出たのだと思う。
 いつかを待たずに前に進んでゆく彼女は最高に美しくかっこいい。

 わたしは理想のいつかを待つことを辞めようと思った。
 理想のいつかを待つだけならば、人生はひどく長く感じられるだろう。そしてきっと、すごく暇だ。けれどそのいつかを実現させようと心から願い動くならば、人生は短いのではないかと思う。やらなきゃいけないこともやりたいことも、この人生の中でどんどんこなしてゆきたいのなら、ああ、とてもゆっくりなどしてはいられない!

 彼女の展示に胸を揺さぶられた。
 あのとき感じた人間がひたむきに生きている尊さ、美しさ、格好良さのおかげで、自分の人生に対して待ちの姿勢でいるという私の態度は変わった。人生何が起こるかわからないのだから、それならば進んでいこうと指が動いた。心がかたくなった瞬間である。

 彼女に深い感謝を寄せつつ、これからももっともっと、世界にも自分にも感動していけることを願い、締めと致します。お読みいただきありがとうございました。



◆参考展示
小林冴子 発芽するときどき
2016/4/24〜4/30 RiverSide Gallery










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