第16号(2016年下半期)



やさしいげいじゅつ

GOKU(ごく)(詩人/朗読家)


 2017年1月1日午後7時51分。佐久近辺の美術批評の原稿にとりかかる。全体像もなく、終着駅もない。あえて。取り留めのない会話に行き先がないようにこの文章の行き着く先を、2017年1月1日午後7時54分の私は知らない。
 絵を描くのが好きな子供だった。裏の白いチラシがあれば、それは私のキャンバスだった。自由画帳を手に入れれば、カイジュウ、ロボット、うちゅうじん、半日で全ての真白いページを空想で埋めた。それが写実であれば、誰かが絵を描くのが好きなのだろうと気づいてくれたかもしれない。しかし私が生まれたのは山深い農村地域。誰も絵を描き続けろと背中を押す者はいなかった。高校になって夕方美術室でデッサンを繰り返す人たちが、ビダイを受験するのだと知ったとき、絵を描くことを生業にしようとする、絵を描き続ける道がこの田舎の高校からもどこかに繋がっていることに衝撃を受けたけれど私の手には既に大学の合格通知が握られていた。いや、もしかしたら握らされていたのかもしれない。今になって思えば。

 美術を身近と感じるには、ある程度の素養が必要なのかもしれない。己が絵を描くなり、両親が美術品を愛でるなり、できれば幼い頃に、そういうものとの距離を詰める機会に恵まれるのが望ましいのではないか。そしてそれは忘れ去られてもいい。三つ子の魂百までの正確な意味は知らないし、これは会話だから「ちょっと待って、いまスマホで調べるね」なんて野暮なことはしないけれど、幼い頃の記憶は生涯に渡ってその体の中に宿り続ける。それがいつか、目を覚ます可能性が生まれる。生まれ方にもみっつあって、ひとつは、美術を見つめる者として、もうひとつは美術を生み出す者として、それから美術を生み出し、かつ見つめる者として。いつかあなたが美術を面白いと思えるときが来たら、あなたのこれまでの人生を振り返って、美術との距離を詰めてくれた誰かに感謝して欲しい。あるいはあなたが誰かにそのような人として目覚めて欲しいのなら、明日、近隣の美術館へと誘ってみるのもいい。そしてその後その人が美術に興味をもつのか、もたないのかを追跡し、この私の説を証明してはくれないか。
 なんだか美術の何であるかを知っているかのような文章にも読めるのだけれど、そんなことはない。私は教科書に出ているような芸術家についても知らないし、美術史についても知らない。ただ美術に興味はある。ん?ここに来て根本的なことだけれど美術と芸術って違うのだろうか。芸術のある部分を美術というのだろうか。ここまで読ませておいてそれはないだろうと、6割以上の人が感じているのを感じるが、そういうものでしょう会話って。でもちょっと調べるから待ってて、ここは大事だから調べるよ。でもね、私はスマホを持っていないので、パソコンを立ち上げインターネットで調べてくるから、ちょっと時間をください。(13分経過)
 うん、どうやら芸術の中に美術はあるんだね。芸術には文学や詩、演劇や音楽も含まれるみたい。今私が見ているこれはフランスの美学者・スリオさんによるものらしい。美術と芸術の違いも説明できない私にもなんとなく伝わる図(スリオの図表)があるので探してみてください。

 さて、佐久近辺である。私は佐久に暮らして20余年になるのでここには少し自信がある。佐久近辺には沢山の作家がいるに違いないこと、そして彼らの作品は比較的安価に入手できるということである。美術品の経済的価値と言ったら0円から上はキリがないほど高額なものまであるだろうが、佐久近辺の作家たちの作品はお小遣い制の私でも手に入れることができる程てごろな価格なのである。これはとても大事なことではないかと思う。気に入った作品を美術館に行くことなく、毎日、自室の壁で、玄関で眺められる。これには、お金にかえられない価値がある。自分の好きなものをいくらでも眺めていていい。好きなときに、好きなだけ。どれだけ愛し合っている恋人でも、好きなときに好きなだけ眺めることはできないだろう。これ本当の会話で言えたら結構ポイント高いんじゃないかな。お金の話は苦手なのでできれば見て見ぬフリで通り過ぎたいのだけれど、ここは貨幣経済の中でしか暮らせない国だからどうしても書かないといけない気もする。好きな言葉は「逃げるが勝ち」。でも今日は元旦だから逃げない。逃げてもいいけど、それをやったら2017年はろくな年にならない気がする。果たして作家たちは美術品を創り続けることで食えるのか?僕は創作だけで食えている人は作家の総数の1%にも満たないと感じている。そして誤解を恐れずに言えば、それでいいし、それでも続けなければいられない者だけが作家であり続けられるのではないかと思っている。プロの定義を語るとき、「作品がお金になるか」「それで食ってるか」という話に落ち着くときがある。それはある一面としては正しいが、作家は仮に創る天才であったとしても、それをお金に変えるのは、ものすごく下手でなくてはならないし、むしろ下手であって欲しい。そしてそのお金に変えるのが下手な作家のために、その作品の価値を認め、手元に置きたいと思う人、そこにお金を払ってでも家に持ち帰りたいと思う人が増えたらどうだろうか。
 私は映画も、音楽も、演劇も好きで、それらを観に行くことも多いのだけれど、それらの芸術に流れる時間は、表現する側にあるのだと思っている。でも、絵画は違う、彫刻は違う。私自身の中に流れる時間に寄り添ってくれるのだ。それはとても「やさしい芸術」と言えるのではないだろうか?こんな世知辛い時代だからこそ、美術を生活の中に。
2017年1月1日 午後8時58分 GOKU







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